森達也

視点をずらす思考術 (講談社現代新書 1930)

視点をずらす思考術 (講談社現代新書 1930)

面白かった。どんな考えを持つにしても、メディアを見る姿勢としてはここに書いてあるくらい斜めから見るのが丁度良い気がする。彼の撮ったドキュメンタリーフィルムも機会があれば是非みたい。今日川口図書館でもう一冊借りてきた。しかし川口図書館の自動貸出機は何度やっても凄いな。快適すぎる。

だから僕のメディア・リテラシーの定義は、「メディアは前提としてフィクションであるということ」と「メディアは多面的な世界や現象への一つの視点に過ぎない」という二つを知ること。p42

(中略)法律は国民の行動を規律し、そして憲法統治権力(国家)を規律する。つまり方向がまったく違う。法律の主体は国家や行政だけど、憲法の主体は主権者である国民一人ひとりだ。(中略)p44

「条項が現実とずれ始めたときに、憲法の意味は最大限に発揮される。」って話。確かにそうだ。時々の世論に合わせて都度憲法を変えていたらそれこそ意味がない。

二十世紀以降の戦争のほとんどは、高揚した危機管理意識から発生する自衛戦争だ。(中略)不安や恐怖は危機を煽り、高揚した危機管理意識は的の不在に耐えられず、やがて敵を作り出す。つまり仮想敵だ。互いに互いを仮想の敵と見なし、互いに脅えながら脅し、やがて「やらねばやられる」式の意識が発動して、先制攻撃を仕掛ける。これが近代の戦争の本質だ。p47

DSM-Ⅵについての功罪はいろいろ取り沙汰されているけれど、その最たるものは、精神という徹底して不定型で曖昧な領域に名称をつけたことだろう。本来は領域であるものが、与えられた名前によって限定された病理となった。p97

危機管理意識が高揚しすぎて全てが善悪二元論に片づけられる。ブッシュの「凶暴な優しさ」の正義論。時に善は善として作用しない。

メディアの機能は、伝えることで罰することじゃない。p115

その権力が偉大すぎてメディアがちょっと調子のってるっていう。オウムへの仕打ちや鳥インフルエンザ事件の際の浅田農産社長夫妻自殺*1が例。

いずれにせよ、絶対的な中立点など存在しない。人が到達できるのは、常に相対的な位置なのだ。p127

このへんは偶然内田樹の本と書いてある内容が似てる。

いつもと少しだけ違う道を歩くだけでもよい。昔好きだったCDを棚の奥から引っぱりだして、もう一度聴くだけでもよい。照れくさいのを我慢して、夕暮れの海辺を誰かと歩くのも手かもしれない。視点が変わるのなら何でも良い。試せるだけ試そう。悩みのうち半分は、きっといつのまにか笑い話になっている。p177