google脳の憂鬱

Googleでよく私が使う検索テクニックまとめ
やっぱ1にも2にもググるに限るよな!Googleアツイ!うお!
といいつつ、実は最近俺は「グーグル脳」の憂鬱に陥っている。
グーグル脳とは、なんでも自分で考えずにググってしまう人、またグーグルの検索結果が全てだと信じ切ってしまう人のことを言うらしい、というか多分そう。なんだけど、俺はPCの前にいると限りなくグーグル脳患者だ。しかも重度の。例えば、PCを付けっぱにしながら本を読んでいて、その本を読みながらちょっと考えることがあるとすぐに検索する。気づくとPCの世界にどっぷりとはまり、何を考えて検索したのかなんて覚えていない。あれ、どこ読んでたっけ…なんて具合。大学の試験勉強中なんてこの症状がもっと酷いことは言うまでもない。
インターネット社会の現代において、このことは一見誰もがやっていることであり、特に問題がないように思える。以前、大前研一氏は「これからの時代、知識などは無意味である。なぜなら知識量では絶対にグーグルに劣るからだ。(つまり知識はグーグル検索すれば誰でも同等に過去の偉人が築いた膨大な情報を簡単に得られるから、知識の所有は意味をなさない。)」みたいなことを言っていた。しかし、これも度を過ぎるとまずいことになるんじゃないかと最近痛感している。グーグルへの過度の依存は考える力までも壊してしまうんじゃないかと。
グーグルは世界中の情報を整理し、提供してくれている。これは、逆に言えばグーグルに求められるのは情報でしかないということだ。
例えば、物事を考えるのに情報は必要だろうか。実は必要がない。考えるだけなら情報が一切提供されない世界に1人取り残された場合でも可能だ。外側から鍵のかかったなにもない部屋の中に閉じこめられても、人はどうやってこの危機的状況から抜け出そうかと考え続ける。情報の役割は、その考える行為を飛躍的に向上させることに過ぎず、要は単に考える行為を手伝うツールでしかないと考えるべきだと思う。その部屋から脱出する為の攻略本はあくまでツールで、脱出方法を考えるのは人間自身なのだ。
それを、俺は「考える」前に「情報」を先取りしていた。実際、その「情報」の裏側にはこれまで過去数百年の間に誰かが「考え」てきた歴史があるのだが、あくまで今現在の俺は何も考えていないことは事実である。にも関わらず、自分がその情報によってアウトプットした何かを俺はあたかも自分の純粋な成果物であるかのように思いこんでしまっていた。これは大きな勘違いだったと思う。
このままでは「考えない存在」として、絶対に勝てない闘いをコンピューターに挑む棘の道を突き進むようなもの。考えなくちゃ色んな意味でやばい。つーか俺ただでさえ人の名前とか覚えられないのに。とにかく、グーグル(情報)はツールでしかないということを覚えておこう。